LOGIN|師玉寧《シーギョクニン》の背中に乗るという夢のような体験は瞬く間に幻と化し、|墨余穏《モーユーウェン》は無事寒仙雪門に辿り着いた。玉庵へ続く石段を二人で登っていると、一人の弟子が扉の前でじっと立っているではないか。墨余穏は目を細めて師玉寧に尋ねる。
「お! あれは|一優《イーユイ》か? それとも|一恩《イーエン》? あ、もう一人いたな? 確か|一明《イーミン》だっけ?」 「あれは一優だ。一明は、父上の所へ行ってもらっている」 |師玉寧《シーギョクニン》の下には、見分けのつかない三つ子の弟子がいる。どこで個々を判断しているのか尋ねると、師玉寧は眉の位置と声の違いで判断しているという。|墨余穏《モーユーウェン》はさっぱり分からないといった様子で視線の先にいる一優を見る。 |一優《イーユイ》はこちらに気づくと、やっと帰ってきたと言わんばかりに目を輝かせ、二人の前で拱手する。 「|師《シー》門主、|墨逸《モーイー》兄さん、お帰りなさい。至急こちらを門主に渡すようにと言われ、ここで待たせていただいておりました」 |師玉寧《シーギョクニン》は、「分かった」と言って、届いた一通の書簡を|一優《イーユイ》から受け取った。包みを丁寧に開け、中の紙をゆっくりと取り出し、達筆で書かれてあった文字を読む。 すると|師玉寧《シーギョクニン》の表情がたちまち曇り始め、眉間に皺を寄せた。 「どうしたの? |賢寧《シェンニン》兄? そんな怖い顔して」 師玉寧は無言で、墨余穏に紙を手渡す。 「何? 読んでいいの?」 墨余穏はそう言って、紙を受け取り読み始める。 「ん〜っと、どれどれ。師門主殿。甦った|墨余穏《モーユーウェン》がそちらにいると聞いた。至急、墨余穏と話がしたい。三日以内にこちらへ来るよう、本人に伝えてもらえないだろうか。決して悪いことはしない。時間がないのだ。よろしく頼む。|高書翰《ガオシューハン》」 |墨余穏《モーユーウェン》は|師玉寧《シーギョクニン》の顔を見ながら確かめるように「だって」と笑う。 「どうする? 行くのか?」 「まぁ、そうだね。ここは|賢寧《シェンニン》兄の顔を立てて、行ってくるよ」 「大丈夫なのか? 高門主と仲違いしているのではないのか?」 |師玉寧《シーギョクニン》は眉間に皺を寄せたまま、心配そうに尋ねる。|墨余穏《モーユーウェン》は笑いながら、ひらひらと手を振り、「平気だよ」とすぐに大篆門へ行く準備を始めた。 確かに昔は|高書翰《ガオシューハン》を含め|大篆門《だいていもん》の門派の連中からは煙たがられていた。 特別何かをされた訳ではないが、良好な関係があった訳でもない。大篆門に所属していないのに、大篆門の礎を取り込んだ呪符を使うのは|高書翰《ガオシューハン》にとってはいい気分ではなかっただろう。 それに、この門主・|高書翰《ガオシューハン》は昔、常に自分と比較される|豪剛《ハオガン》を強く憎み、ある事がキッカケで豪剛を大篆門から追放した張本人だ。 一体、何を今更話したいというのだろうか? |墨余穏《モーユーウェン》は、皆目見当がつかないといった様子で唇を立てた。 「じゃ、俺は行ってくるよ。早く行って早く帰ってくるから」 「もう直、夜になる。何かあればすぐに神通符を飛ばせ。いいな」 「は〜い。じゃ」 |墨余穏《モーユーウェン》は、|師玉寧《シーギョクニン》と|一優《イーユイ》に手を振りながら、門まで続く石段をまた駆け降りていった。 |大篆門《だいていもん》は、|尊丸《ズンワン》の住む尊仙廟から近い場所にある。裏手の黄山を抜けていけば直ぐに辿り着く。|墨余穏《モーユーウェン》は乗蹻術を半分使い、大篆門へ急いだ。 大篆門の大きな門の前に到着した|墨余穏《モーユーウェン》は、松明を持った門番に|高書翰《ガオシューハン》から書簡を貰ったと伝えると、何ら警戒心もなく中へ案内された。 門番に連れられしばらく歩いていると、前から突然片腕を負傷した男が|墨余穏《モーユーウェン》に向かって|紙人術《しじんじゅつ》を投げ飛ばしてきた! |墨余穏《モーユーウェン》は咄嗟にその呪符を躱し、背後からやってくるもう一枚の呪符は人差し指と中指で阻止するように掴んだ。男は「さすがだな〜」と言いながら、|墨余穏《モーユーウェン》の前に顔を見せる。 「久しぶりだな、|墨余穏《モーユーウェン》。動きが|豪剛《ハオガン》そっくりだ。本物で間違いない」 |墨余穏《モーユーウェン》は、その渋い髭面の顔を見るや否や、小さく頭を下げ拱手した。 「|高《ガオ》門主。お久しぶりです。お話しがあると聞いて、こちらに参りました」 「まぁ、そんな堅苦しくなるな。寒仙雪門から来たんだろ? あっちで温かい茶でも飲みながら話そうではないか」 そう言われた|墨余穏《モーユーウェン》は何も言わず、穏やかな笑みを浮かべた|高書翰《ガオシューハン》の後ろをついて行く。 鯉が泳ぐ池の脇を通り、木の板を無数に繋ぎ合わせた橋の上を歩いていくと、手入れの行き届いた庭園を眺められる豪華な客間へ到着した。 「まぁ、そこに座れ。今、茶を用意させる」 |墨余穏《モーユーウェン》は礼を言いながら、|高書翰《ガオシューハン》と向かい合うようにして、椅子に腰掛けた。 「ところで、どうやって生き返ったんだ? 何かの術か?」 |高書翰《ガオシューハン》は興味津々といった様子で、茶が運ばれてくる前から話し出す。|墨余穏《モーユーウェン》は、乱用された呪符に自分の魂魄が入っていた為、その影響を受けて甦ったのではないかと話した。 「ほぉ〜。実に興味深いな。余程、お前を死なせたくなかった奴がいたんだな。普通は死ぬと魂魄も離れちまうからな。長生きはできても、甦ることはなかなかできないぞ。あぁ。ありがとう」 |高書翰《ガオシューハン》は運ばれてきた茶器を受け取り、芳醇に香る花茶を口に含んだ。|墨余穏《モーユーウェン》も出された花茶を口に含みながら、|高書翰《ガオシューハン》の話に耳を傾ける。 「先日、鈴音のを鳴らす昔の馴染みに腕をやられちまってな。|豪剛《ハオガン》から|呂熙《リューシー》という男の話を聞いた事はないか?」 「呂熙……? いや、ありません」 「そうか。あの|豪剛《ハオガン》ですら片腕しか斬れなかった突厥の強者だ。そいつがまた、この界隈に別の突厥を引き連れて姿を現し始めた。そこでだな、|墨余穏《モーユーウェン》。|豪剛《ハオガン》の能力を受け継いだお前に力を借してもらいたい」 「はぁ……」 |墨余穏《モーユーウェン》は、そんなことか……、と面食らった。てっきり、次こそは能力を全て剥ぎ取って二度と大篆門の術式を使わせないように、監禁されるのではないかと思っていたからだ。 墨余穏は具体的に何をしたらいいのか|高書翰《ガオシューハン》に尋ねる。 「そうだな〜。|大篆門《だいていもん》に入って俺の右腕にならないか? 昔の馴染みに免じて優遇するぞ。お前、どこにも所属していないんだろう? いつまで散修のまま居続けるつもりだ? このまま|師《シー》門主に世話を焼かせるつもりなのか?」 |墨余穏《モーユーウェン》は苦笑いを浮かべ、それもそうだと妙に納得してしまった。|師玉寧《シーギョクニン》は、寒仙雪門に身を寄せていろと言ってくれたが、いつまででも玉庵に居候する訳にもいかない。 しかし、どうしても二つ返事はできなかった。 この目の前に座る髭面の男は、かつて|豪剛《ハオガン》を追放した人間だ。根本からの信頼がない。 墨余穏は一つ一つ言葉を選び、上手くこの状況を切り抜けようとする。 「ここに所属させてもらわなくても、僕はいつだって大篆門の礎は胸に刻んでいます。何かあれば助太刀しますし、裏切るようなことはしません」 「ならば、一筆書いてくれ。何があっても大篆門の礎は捨てないと」 |高書翰《ガオシューハン》は胸元から一枚の紙を取り出し、|墨余穏《モーユーウェン》に差し出した。 |墨余穏《モーユーウェン》は一瞬戸惑うが、本心だった為、何の偽りもなく誓いを立てるかのように直筆で名前を書く。 「よし、お前はこれでいつでも大篆門の仲間だからな。帰りたくなったら、いつでも帰ってこい。いつでも歓迎する」 |墨余穏《モーユーウェン》は小さく礼を言うと、|高書翰《ガオシューハン》から大篆門の守護術が入った一枚の呪符を渡された。 「守護術の入った呪符だ。何かあれば、これで私たちを呼べ。直ぐに駆けつける」 その呪符をしばらく眺めた後、|墨余穏《モーユーウェン》はそれを胸元にしまい、|高書翰《ガオシューハン》としばらくたわいもない会話をした。 「泊まっていけ」と言われたが、丁重に断り|墨余穏《モーユーウェン》は夜遅くに大篆門を後にした。 皓月を頼りに夜道を歩きながら、|墨余穏《モーユーウェン》は寒仙雪門へ向かおうと乗蹻術の呪符を取り出すが、何の反応もしない。 「ん? 何故だ? 何故反応しない?」 |墨余穏《モーユーウェン》はもう一度、功力を込めて乗蹻術を念じるが、無反応のまま呪符が落ちていく。 焦る墨余穏は、違う呪符ならばと違う呪符を胸元から取り出し、手のひらに乗せて浮かせようとするがこれも反応しない。 神通符ならどうだろうか……? |師玉寧《シーギョクニン》の元にこれさえ届けば…… |墨余穏《モーユーウェン》は一縷の望みをかけて、神通符を飛ばす。しかし、神通符はそのまま紙切れが舞うように、草むらへまたひらりと落ちてしまった。 「はははっ……、まずいな。今ここに、妖魔や強者が来たら戦えないじゃん。|高書翰《ガオシューハン》め……。いい顔しやがって、これがしたかったのか……」 |墨余穏《モーユーウェン》が怒りのこもった独り言を嘆いていると、背後からリンリンと鈴の音が聞こえてきた。 (この鈴の音はさっき言っていた……) 墨余穏は何故か身動きが取れなくなり、ありとあらゆる所に瘀血が出始める。 術式を封印された今、誰かと戦うことは飛んで火に入る夏の虫だ。|墨余穏《モーユーウェン》は気功を呼び覚まし、瘀血を最小限にとどめる。 「化け物も引っ込む時分に、黒色の鼠が一匹……」 背後から鈴の音と妙な濁声が耳に入り、|墨余穏《モーユーウェン》は一気に鳥肌が立った。 「鈴の音はやはり幸運もたらす」 男は獲物を見つけたかのように、|墨余穏《モーユーウェン》の背後にピタリと引っ付き、墨余穏の首を鉤爪でそっと引っ掻いた。ほんの少し触れただけなのに、墨余穏の首からは瞬く間に血が滲み出る。 墨余穏は首元を抑えながら、声を絞り出した。 「お前は……、|呂熙《リューシー》か?」 「御名答。後世まで名前が知れ渡っているとは、さすが博学多才な天台山だ。昔より衰えたとはいえ、張り子の虎ばかりではなさそうだな」 |墨余穏《モーユーウェン》は鼻で笑いながら|呂熙《リューシー》を一瞥する。 「さてと、その睨み節もここまでだ。お前を殺して私は次に行かねばならない」 呂熙は鉄のような鉤爪を更に尖らせ、鉤爪同士を重ね合わすかのようにキンキンと鳴らし、次は|墨余穏《モーユーウェン》の首全体を狙い、鉤爪を横に振り翳した! 絶体絶命だと墨余穏は目を瞑る。 しかし鉤爪があとほんの少しで墨余穏の首に突き刺さるというところで、|呂熙《リューシー》の鉤爪がバリバリという音を立てて、一瞬で凍りついた! 墨余穏は瞑っていた目を開き、瞬きをすると、首元に青い線が入った白い衣の男を捉えた! 「|賢寧《シェンニン》兄!!!」 |師玉寧《シーギョクニン》は|墨余穏《モーユーウェン》を庇うかのように目の前にいる|呂熙《リューシー》から、距離を取らせる。 呂熙は顔色を失い、溜め息を漏らした。 「ここに来て白い鼠か……。すまないが今日はもう時間がない。門主とはまた手合わせすることにしよう」 |呂熙《リューシー》はそう言って、また|阿可《アーグァ》の時と同じように、抜け殻だけを残して去っていった。 すると、|師玉寧《シーギョクニン》は、怒りを帯びた顔で|墨余穏《モーユーウェン》の方を振り向く。 それを見た墨余穏は「ごめん」と言おうとするが、「ご」を言う前に、頭の中が真っ白になった。 突然、師玉寧に勢いよく抱き寄せられ、血が滲み出ていた首の傷口を舐められたあと、キツく傷口を吸われたからだ。 唐突な出来事に声も出ず、ただひたすら湧き上がる興奮と痛みを我慢するしかなかった。少しでも動こうものなら、師玉寧の恐ろしい腕力で身体を力強く固定される。まるで、大木に押しつぶされているかのようだ。師玉寧の唇が首に触れる度、墨余穏は全身に走る電流のような刺激に、思わず「んんっ……」と恥じらいの声を漏らしてしまう。 |師玉寧《シーギョクニン》はそんな|墨余穏《モーユーウェン》の感情など露ほども知らずといった様子で、口に含んだ墨余穏の血を吐き続けている。 そして、十回ほど吸われたところでようやく解放された。 墨余穏は師玉寧に酔眼のような目を向け、まるで事後のような乱れた呼吸をする。 顔がとても近い……。 汚してしまったその淡い丹花をすぐにでも拭いたいと、|墨余穏《モーユーウェン》はその丹花に触れようと手を伸ばす。しかし、|師玉寧《シーギョクニン》はそれを上手く躱すかのようにふと離れた。 「応急処置だ。あいつの鉤爪には毒がある」 |師玉寧《シーギョクニン》はそう言いながら、衣の袖で赤く汚れた唇を拭った。 そして怒り口調で墨余穏を責め始める。 「何故、神通符を飛ばさなかったんだ? こんな時間まで何をしている!」 「ご、ごめん。|賢寧《シェンニン》兄。そんな怒んないでよ。大篆門を出たら術が使えなくなったんだ。それで、帰ろうにも帰れず、とりあえず尊仙廟まで行こうと思ったらあいつに出会して……」 「術が使えなくなっただと?!」 「うん。一筆書かされたから。その時に多分封じ込められた」 |師玉寧《シーギョクニン》は、何をやっているだと言いたげに深い溜め息を漏らした。 「安易に名前を書いてはいけないと教わっただろう。後は何をされた?」 「うーんと、これを持っていろと言われて渡された」 |墨余穏《モーユーウェン》は胸元から、|高書翰《ガオシューハン》から貰った呪符を取り出した。 |師玉寧《シーギョクニン》はそれを一瞥し、「今すぐ捨てろ」と言い放った。 「それは、お前の居場所を把握する為の呪符だ。高門主に見張られているということだぞ。……本当にお前は警戒心が弱すぎる」 「ごめん……」 |墨余穏《モーユーウェン》は困り顔で癖のように唇を立てた。それからというもの、墨余穏は少年が母親に叱られるかの如く|師玉寧《シーギョクニン》から長々と説教を受け、寒仙雪門に戻ってからは、首を絞められるのではないかと思うぐらい傷口にキツく包帯を巻かれた。 そして、終いにはあの苦い一葉茶を三杯連続で飲まされる羽目になり、墨余穏は一人、吐き気が治るまでしばらく外の草むらで過ごしたのだった。それから|墨余穏《モーユーウェン》は、全てを失ったかのような複雑な感情を抱いたまま、|崑崙山《こんろんざん》へ向かった。『一人になりたい』という言葉は、|師玉寧《シーギョクニン》にとっては、拒絶とも取れる言葉なのだろう。 どうして相談もせず口走ってしまったのだろうかと、|墨余穏《モーユーウェン》は自分の放ってしまった言葉に、酷く後悔した。 ただ、やはり|師玉寧《シーギョクニン》は|香翠天尊《シィアンツイてんずん》に想いを寄せているのだと、|墨余穏《モーユーウェン》は確信する。あの目の憂い、落胆するような仕草は、香翠天尊に何かしらの情があるからに違いない。 最愛の人が疑われるのは、|師玉寧《シーギョクニン》にとって心底心外だっただろう。 だが、|墨余穏《モーユーウェン》はどうしてもそれを拭い去ることができなかった。 金龍台門へ行く前、天台山で|香翠天尊《シィアンツイてんずん》に襟元を整えてもらった時、何か特殊な力を感じた。 僅かだが、|天晋《ティェンシン》からも香翠天尊と同じ温度みたいなものを感じたのだった。 |師玉寧《シーギョクニン》にこの僅かな変化を伝えられたら良かったのかもしれないが、もう後の祭りだ。 |墨余穏《モーユーウェン》はひとしきり後悔した後、峻険な崑崙山の中腹まで|乗蹻術《じゃきょうじゅつ》を使って飛び立った。 前世の記憶を辿り、林の中をひたすら歩いていく。 すると、確かに記憶に残っていた家屋が木々の隙間から薄らと見え始めた。 (あそこだ! ) |墨余穏《モーユーウェン》は木々を掻き分けて颯爽と向かう。 家屋の敷地に到着すると、何か擦れる音が庭先から聞こえてきた。その音の方に向かって歩いていくと、中年の男が石に座って剣を磨いているではないか。 |墨余穏《モーユーウェン》は口元を緩ませ、名前を呼ぶ。「|黄轅《コウエン》先生!」 すると、中年の男は驚いた様子で|墨余穏《モーユーウェン》の方に振り向いた。 目を細め、まじまじと|墨余穏《モーユーウェン》を眺めると、研いでいた剣を放っぽり出してこちらに向かって来る。 「|豪剛《ハオガン》の|墨逸《モーイー》か?! おっと、たまげた! 本当に墨逸じゃないか〜!!」 |黄轅《コウエン》は目尻を垂れ下げた満面の笑みを浮かべて、|墨余穏《モーユーウェン》を抱き寄せた。
おぼつかない足取りで|墨余穏《モーユーウェン》は、|葉風安《イェフォンアン》の元へ向かう。 葉風安の冷たくなった血塗れの頭部を拾うと、墨余穏はその場で崩れ落ち、葉風安を抱きしめながら深い愁いに沈む。その姿を見ていた|師玉寧《シーギョクニン》も目潤わせ、天を仰いで長嘆した。 憂愁に閉ざされた緑琉門は深い悲しみに包まれる。 一つの門派がこのような形で閉門するなど、誰が想像していただろうか……。未だこの現実を受け止めきれない門弟たちは、いよいよ、本格的に天台山は統治を保てなくなってきたかもしれないと、落胆の声を上げた。 その中、毅然と振る舞う数名の門弟たちの手によって三人の遺体は、|葉誉《イェユー》が信仰していた道観に綺麗にまとめられた。 天台山で供養してもらう為、残っていた一部の魂魄を霊符に納め、皆で黙祷する。 しばらくして厳かな風が吹き抜けると、|葉誉《イェユー》の側近だったという一人の男が、その霊符を|師玉寧《シーギョクニン》に渡した。「|師《シー》門主……。これから我々門派は、衰運の一途をたどるでしょう。どうか私たち緑琉門のこの無念、あなた様の手で晴らしていただきたい……。天台山の安寧を祈ります」 側近に倣い、そこにいた全ての緑琉門の門弟たちが|師玉寧《シーギョクニン》に深く頭を下げた。 |師玉寧《シーギョクニン》も受け取った霊符を白い布で包むと、緑琉門の門弟たちに深く頭を下げた。 |墨余穏《モーユーウェン》は、床に落ちていた一枚の鮮やかな翠緑の羽を見つけ、そっと拾い上げる。両面をひらひらと眺めながら、|葉風安《イェフォンアン》の面影を記憶から呼び覚まし、瞼の裏に葉風安を映す。 |墨余穏《モーユーウェン》はひとしきり|葉風安《イェフォンアン》を感じた後、彼の形見としてそれを胸元に仕舞った。 それから|墨余穏《モーユーウェン》と|師玉寧《シーギョクニン》は緑琉門を後にし、|乗蹻術《じゃきょうじゅつ》を使って天台山へ向かった。 二人の間に会話はなく、相変わらず重い空気だけが流れている。 道中、墨余穏はある事を思い出し、ふと口を開いた。 「そういえば、|一恩《イーエン》たちはどうしたんだ? 先に緑琉門に向かっていたはずじゃ?」 |師玉寧《シーギョクニン》は少し間を空けて答える。「急遽、天台山へ行かせた」「天台山? 何
腹部を刺された|葉風安《イェフォンアン》はその瞬間、ずっと待ち侘びていた|墨余穏《モーユーウェン》の姿を捉えた。 記憶の中に沈めていた思い出が走馬灯のように駆け巡り、|墨余穏《モーユーウェン》が見せる絶望的な眼差しを見る。 天流会で助けてくれたあの日から、|葉風安《イェフォンアン》は|墨余穏《モーユーウェン》に想いを寄せていた。 |師玉寧《シーギョクニン》とは違う端麗な面持ちと、風が吹き抜けるような爽やかな笑みに何度も心を奪われ、脆い心に自ら心地よい風を吹かせた。墨余穏だけは常に特別であり、気まぐれな彼がいつ来ても良いようにと、緑琉門の厳重な門符を解き、私室も開放した。 数え切れない程の時間を共にし、ようやく心づもりができたと思った矢先だった。小夜嵐が軒を鳴らすように|青鳴天《チンミンティェン》との戦いで、|墨余穏《モーユーウェン》が死んだという知らせが届いた。 この時、葉風安は絶望を超えた喪失感に襲われ、この世に風が存在していることすら忘れてしまう程途方に暮れた。 |葉風安《イェフォンアン》はどうにかして、|墨余穏《モーユーウェン》の魂魄を呼び戻せないかと|道玄天尊《ダオシュエンてんずん》の元へ悲願しに行ったが、どうしてか魂魄は見つからず、手掛かりが掴めないまま十年が過ぎてしまった。 その間に、自分と同じ気持ちでいた人が別にいたことを風の噂で聞き、それがまた敵わない相手だと知った|葉風安《イェフォンアン》は、悲恋を抱いた。 目の前にいる二人の関係性を崩す訳にはいかないと、|葉風安《イェフォンアン》は一人、自分の心に木枯らしを吹かせ、二人の幸せを願った。 「|風立《フォンリー》!!」 |墨余穏《モーユーウェン》の叫ぶ声が鳴り響く。 |葉風安《イェフォンアン》は墨余穏の声に応えるように、ほんの僅かに口元を緩ませると、口から物凄い勢いで鮮血を吐き出し、意識を失くした。 側にいた|呂熙《リューシー》が更に追い討ちをかけるかのように、鉤爪で固定していた葉風安の首を切断した。 目の前の惨劇に驚愕した|墨余穏《モーユーウェン》は、思わず叫ぶ! かつてないほどの殺気を込めて胸元から呪符を取り出し、|墨余穏《モーユーウェン》は|呂熙《リューシー》の元に飛び掛かった。強力な神呪で呂熙の身動きを封じた後、次に墨余穏は動きを変え、|青鳴天《チンミ
「シェ……、|賢寧《シェンニン》兄……」 「人様の家で何をしている」 |師玉寧《シーギョクニン》の目は据わり、幾重にも連なる氷瀑の先が今にも頭上に落ちてきそうな刺々しい雰囲気を纏っている。|墨余穏《モーユーウェン》は額に冷や汗を滲ませ、口元を引き結ぶ。 |水仙玉君《スイセンギョククン》は続けた。 「何故、勝手に出て行った?」 「そ、それは……」「何だ?」「俺がいると迷惑かなっと思って……」 視線を合わすことに耐えかねた|墨余穏《モーユーウェン》は、俯きながら|師玉寧《シーギョクニン》から向けられる冷たい視線を逸らした。 師玉寧は深く溜め息を吐き、墨余穏に言う。「私がいつ迷惑だと言った?」「……だって、俺がずっと側にいたらさ|賢寧《シェンニン》兄の好きな人が嫌がるでしょ。だから、俺とは居ない方が……」 |師玉寧《シーギョクニン》は|墨余穏《モーユーウェン》の言葉を遮ったと思ったら、墨余穏の胸ぐらを勢いよく掴んで逞しく引き締まった己の身体に引き寄せた!「私に二度と心配をかけさせるな!! 分かったか!!」 深雪のような白い肌が血に染まるが如く、師玉寧は血相を変えて怒鳴りつけた。感情的な|師玉寧《シーギョクニン》を初めて見た|墨余穏《モーユーウェン》は、思わず顔を引き攣らせ怖気付く。 |師玉寧《シーギョクニン》は更に声を荒げた。「お前は、黙って私の横に居ればいい!!」「で、でも、それじゃ……」「でも何だ?! まだ何か文句があるのか?! これ以上無駄口を叩くならば、霊符に封印するぞ!!」「……」 |師玉寧《シーギョクニン》の黄玉の瞳が激しく揺れている。 その瞳の奥から、猛獣の如く獲物を独占したいという欲望が溢れていた。墨余穏はどうする事もできず口を閉ざす。 師玉寧からようやく胸ぐらを解放され、墨余穏はよろけた身体を立て直し、そっと首元を整えた。 |水仙玉君《スイセンギョククン》は、|墨余穏《モーユーウェン》に背を向け、声だけを墨余穏に向ける。「|緑琉門《りゅうりゅうもん》へ急ぐぞ。|風立《フォンリー》が危ない」「……何があったの?」 |墨余穏《モーユーウェン》は怪訝そうに訊ねると、|師玉寧《シーギョクニン》は小さく溜め息を漏らし、言葉を繋げた。「突厥に捕まったと神通符が届いた。その中にはお前を襲った|呂熙《リュ
|墨余穏《モーユーウェン》の心の水面は凪の如く落ち着き、正気を取り戻すと、|趙沁《ジャオチン》の言っていた|栄穂村《ろんすいむら》に到着した。 古い家屋が並び、奥にはだだっ広い田畑が広がっている。 その横には馬や牛、山羊などの動物たち飼育されており、酪農の独特な香りが漂っていた。 「ここが僕たちの住む村だよ。僕たちは皆農家なんだ。五十人も満たない小さな村だけど、皆仲良くやっているよ」「へぇ。そうなのか。ちなみに、|趙沁《ジャオチン》は何を作ってるんだ?」「僕は、山羊を飼育している。ここの村の山羊肉やお乳はとっても美味しいだ。良かったら食べていかない? 後でご馳走するよ」 山羊肉が好物な|墨余穏《モーユーウェン》はそれを聞いて、口の中を涎で満たした。 墨余穏は溢れてくる生唾を飲み込みながら、案内された家まで趙沁を運ぶ。すると、趙沁の背負われた姿に気づいた村の長老が、何事かと顔を曇らせて駆け寄って来る。「|趙沁《ジャオチン》! 一体どうしたんだ! 何があったんだい?!」「あ、|長豊《チャンフォン》さん。いやぁ〜、山道を下ろうとしたら足を滑らせてしまって。ちょうど近くにいたこちらの|墨逸《モーイー》仙君に助けてもらったんだ」 長老の|長豊《チャンフォン》はそれを聞いて、|墨余穏《モーユーウェン》に小さく頭を下げた。続けて、「あまり無理をするな」と|趙沁《ジャオチン》に言うと、長豊は墨余穏の背中から降りようとする趙沁の背中を支え、椅子に座らせた。趙沁の様子に安堵したのか、長豊がゆっくりと顔を綻ばせる。「仙君。うちの村の者を助けてくださり、ありがとうございました。礼は尽くしますので、今しばらくこちらでお待ちください」 「あ、|長豊《チャンフォン》さん、僕の所にある山羊の肉もお願いできる?」「あぁ、分かったよ! 茶も持ってくるから、ゆっくりしていな」「礼には及ばない」と|墨余穏《モーユーウェン》は言うも、長豊は全く聞き耳を持たず、外へ出て行ってしまった。 |趙沁《ジャオチン》は鼻を掻きながら墨余穏に言う。「気にせず甘えていいから。僕も|墨逸《モーイー》ともう少し話がしたいから、ここにいて」「なんか、申し訳ないなぁ。ありがとう」 |墨余穏《モーユーウェン》は控えめな笑みを見せた。 すると、|趙沁《ジャオチン》がおぼつかない足取りで、薬
物々しい雰囲気が漂う鴉の住処で、|鳥鴉盟《ウーヤーモン》の|青鳴天《チンミンティェン》は、虚な目をして黒石の冷えた床に額を付けていた。 「お前はまだ、|緑稽山《りょくけいざん》を仕留められないのか?」 石の床が僅かに震えるほど低い威圧的な声が、青鳴天の耳に襲い掛かる。「はい……」と震える声で答えながら、青鳴天は更に額を床に擦り付けた。 「お前は一体、どこで何をしている。天台山の力が弱まった今、我々が天下を取れる千載一遇の好機なのだぞ。|阿可《アーグァ》と手を組んでやっているというのに、お前と来たらこの有り様か。これ以上、私を絶望させないでくれ」 「……申し訳ありません。父上」 自分の倅だというのに、居丈高で有名な鳥鴉盟の盟主•|天晋《ティェンシン》は、害虫でも見るような目で青鳴天を見下ろしていた。 天晋は、僅かに肩を震わす|青鳴天《チンミンティェン》に向かって、更に言葉を振り下ろす。 「かつてお前が殺したはずの|墨余穏《モーユーウェン》が生きていると聞いた。まさか、それも仕留めそびれていたと言うんじゃないだろうな」 「ち、違います! 確かに私は奴を殺しました! けれど……」 青鳴天は顔を上げ、先日墨余穏と屈辱的な再会を果たしたことを、嫌悪感混じりに話した。 「━︎━︎あれは確かに、あの時のままの|墨余穏《モーユーウェン》でした。どうして甦ったのか、私にも分かりません」 「妙な話だ」 |天晋《ティェンシン》は伸びた髭を弄りながら|青鳴天《チンミンティェン》を見遣る。 青鳴天は続けた。 「巷の噂では、奴は今|寒仙雪門《かんせんせつもん》に身を寄せていると聞いています」 「寒仙雪門? 相変わらず|師《シー》門主も変わり者だな。あのような者を匿ったとて、何一つ良いことなどないのに」 「そうです! 父上の仰る通りです! あの者はもう一度私が必ず……」 |天晋《ティェンシン》は、お前がか? とでも言いたげに、|青鳴天《チンミンティェン》を一瞥した。 その背筋が凍るような視線を感じた青鳴天は、それ以上言葉を繋げることができず、唇を噛みながら俯いた。 「ふん。まぁ、いい。奴は最後の砦にしよう。先ずは|緑琉門《りゅうりゅうもん》からだ。それから|寒仙雪門《かんせんせつもん》へ行けば、奴は自ずと消えるだろう」 天晋は陰湿な笑