LOGIN|師玉寧《シーギョクニン》の背中に乗るという夢のような体験は瞬く間に幻と化し、|墨余穏《モーユーウェン》は無事寒仙雪門に辿り着いた。玉庵へ続く石段を二人で登っていると、一人の弟子が扉の前でじっと立っているではないか。墨余穏は目を細めて師玉寧に尋ねる。
「お! あれは|一優《イーユイ》か? それとも|一恩《イーエン》? あ、もう一人いたな? 確か|一明《イーミン》だっけ?」 「あれは一優だ。一明は、父上の所へ行ってもらっている」 |師玉寧《シーギョクニン》の下には、見分けのつかない三つ子の弟子がいる。どこで個々を判断しているのか尋ねると、師玉寧は眉の位置と声の違いで判断しているという。|墨余穏《モーユーウェン》はさっぱり分からないといった様子で視線の先にいる一優を見る。 |一優《イーユイ》はこちらに気づくと、やっと帰ってきたと言わんばかりに目を輝かせ、二人の前で拱手する。 「|師《シー》門主、|墨逸《モーイー》兄さん、お帰りなさい。至急こちらを門主に渡すようにと言われ、ここで待たせていただいておりました」 |師玉寧《シーギョクニン》は、「分かった」と言って、届いた一通の書簡を|一優《イーユイ》から受け取った。包みを丁寧に開け、中の紙をゆっくりと取り出し、達筆で書かれてあった文字を読む。 すると|師玉寧《シーギョクニン》の表情がたちまち曇り始め、眉間に皺を寄せた。 「どうしたの? |賢寧《シェンニン》兄? そんな怖い顔して」 師玉寧は無言で、墨余穏に紙を手渡す。 「何? 読んでいいの?」 墨余穏はそう言って、紙を受け取り読み始める。 「ん〜っと、どれどれ。師門主殿。甦った|墨余穏《モーユーウェン》がそちらにいると聞いた。至急、墨余穏と話がしたい。三日以内にこちらへ来るよう、本人に伝えてもらえないだろうか。決して悪いことはしない。時間がないのだ。よろしく頼む。|高書翰《ガオシューハン》」 |墨余穏《モーユーウェン》は|師玉寧《シーギョクニン》の顔を見ながら確かめるように「だって」と笑う。 「どうする? 行くのか?」 「まぁ、そうだね。ここは|賢寧《シェンニン》兄の顔を立てて、行ってくるよ」 「大丈夫なのか? 高門主と仲違いしているのではないのか?」 |師玉寧《シーギョクニン》は眉間に皺を寄せたまま、心配そうに尋ねる。|墨余穏《モーユーウェン》は笑いながら、ひらひらと手を振り、「平気だよ」とすぐに大篆門へ行く準備を始めた。 確かに昔は|高書翰《ガオシューハン》を含め|大篆門《だいていもん》の門派の連中からは煙たがられていた。 特別何かをされた訳ではないが、良好な関係があった訳でもない。大篆門に所属していないのに、大篆門の礎を取り込んだ呪符を使うのは|高書翰《ガオシューハン》にとってはいい気分ではなかっただろう。 それに、この門主・|高書翰《ガオシューハン》は昔、常に自分と比較される|豪剛《ハオガン》を強く憎み、ある事がキッカケで豪剛を大篆門から追放した張本人だ。 一体、何を今更話したいというのだろうか? |墨余穏《モーユーウェン》は、皆目見当がつかないといった様子で唇を立てた。 「じゃ、俺は行ってくるよ。早く行って早く帰ってくるから」 「もう直、夜になる。何かあればすぐに神通符を飛ばせ。いいな」 「は〜い。じゃ」 |墨余穏《モーユーウェン》は、|師玉寧《シーギョクニン》と|一優《イーユイ》に手を振りながら、門まで続く石段をまた駆け降りていった。 |大篆門《だいていもん》は、|尊丸《ズンワン》の住む尊仙廟から近い場所にある。裏手の黄山を抜けていけば直ぐに辿り着く。|墨余穏《モーユーウェン》は乗蹻術を半分使い、大篆門へ急いだ。 大篆門の大きな門の前に到着した|墨余穏《モーユーウェン》は、松明を持った門番に|高書翰《ガオシューハン》から書簡を貰ったと伝えると、何ら警戒心もなく中へ案内された。 門番に連れられしばらく歩いていると、前から突然片腕を負傷した男が|墨余穏《モーユーウェン》に向かって|紙人術《しじんじゅつ》を投げ飛ばしてきた! |墨余穏《モーユーウェン》は咄嗟にその呪符を躱し、背後からやってくるもう一枚の呪符は人差し指と中指で阻止するように掴んだ。男は「さすがだな〜」と言いながら、|墨余穏《モーユーウェン》の前に顔を見せる。 「久しぶりだな、|墨余穏《モーユーウェン》。動きが|豪剛《ハオガン》そっくりだ。本物で間違いない」 |墨余穏《モーユーウェン》は、その渋い髭面の顔を見るや否や、小さく頭を下げ拱手した。 「|高《ガオ》門主。お久しぶりです。お話しがあると聞いて、こちらに参りました」 「まぁ、そんな堅苦しくなるな。寒仙雪門から来たんだろ? あっちで温かい茶でも飲みながら話そうではないか」 そう言われた|墨余穏《モーユーウェン》は何も言わず、穏やかな笑みを浮かべた|高書翰《ガオシューハン》の後ろをついて行く。 鯉が泳ぐ池の脇を通り、木の板を無数に繋ぎ合わせた橋の上を歩いていくと、手入れの行き届いた庭園を眺められる豪華な客間へ到着した。 「まぁ、そこに座れ。今、茶を用意させる」 |墨余穏《モーユーウェン》は礼を言いながら、|高書翰《ガオシューハン》と向かい合うようにして、椅子に腰掛けた。 「ところで、どうやって生き返ったんだ? 何かの術か?」 |高書翰《ガオシューハン》は興味津々といった様子で、茶が運ばれてくる前から話し出す。|墨余穏《モーユーウェン》は、乱用された呪符に自分の魂魄が入っていた為、その影響を受けて甦ったのではないかと話した。 「ほぉ〜。実に興味深いな。余程、お前を死なせたくなかった奴がいたんだな。普通は死ぬと魂魄も離れちまうからな。長生きはできても、甦ることはなかなかできないぞ。あぁ。ありがとう」 |高書翰《ガオシューハン》は運ばれてきた茶器を受け取り、芳醇に香る花茶を口に含んだ。|墨余穏《モーユーウェン》も出された花茶を口に含みながら、|高書翰《ガオシューハン》の話に耳を傾ける。 「先日、鈴音のを鳴らす昔の馴染みに腕をやられちまってな。|豪剛《ハオガン》から|呂熙《リューシー》という男の話を聞いた事はないか?」 「呂熙……? いや、ありません」 「そうか。あの|豪剛《ハオガン》ですら片腕しか斬れなかった突厥の強者だ。そいつがまた、この界隈に別の突厥を引き連れて姿を現し始めた。そこでだな、|墨余穏《モーユーウェン》。|豪剛《ハオガン》の能力を受け継いだお前に力を借してもらいたい」 「はぁ……」 |墨余穏《モーユーウェン》は、そんなことか……、と面食らった。てっきり、次こそは能力を全て剥ぎ取って二度と大篆門の術式を使わせないように、監禁されるのではないかと思っていたからだ。 墨余穏は具体的に何をしたらいいのか|高書翰《ガオシューハン》に尋ねる。 「そうだな〜。|大篆門《だいていもん》に入って俺の右腕にならないか? 昔の馴染みに免じて優遇するぞ。お前、どこにも所属していないんだろう? いつまで散修のまま居続けるつもりだ? このまま|師《シー》門主に世話を焼かせるつもりなのか?」 |墨余穏《モーユーウェン》は苦笑いを浮かべ、それもそうだと妙に納得してしまった。|師玉寧《シーギョクニン》は、寒仙雪門に身を寄せていろと言ってくれたが、いつまででも玉庵に居候する訳にもいかない。 しかし、どうしても二つ返事はできなかった。 この目の前に座る髭面の男は、かつて|豪剛《ハオガン》を追放した人間だ。根本からの信頼がない。 墨余穏は一つ一つ言葉を選び、上手くこの状況を切り抜けようとする。 「ここに所属させてもらわなくても、僕はいつだって大篆門の礎は胸に刻んでいます。何かあれば助太刀しますし、裏切るようなことはしません」 「ならば、一筆書いてくれ。何があっても大篆門の礎は捨てないと」 |高書翰《ガオシューハン》は胸元から一枚の紙を取り出し、|墨余穏《モーユーウェン》に差し出した。 |墨余穏《モーユーウェン》は一瞬戸惑うが、本心だった為、何の偽りもなく誓いを立てるかのように直筆で名前を書く。 「よし、お前はこれでいつでも大篆門の仲間だからな。帰りたくなったら、いつでも帰ってこい。いつでも歓迎する」 |墨余穏《モーユーウェン》は小さく礼を言うと、|高書翰《ガオシューハン》から大篆門の守護術が入った一枚の呪符を渡された。 「守護術の入った呪符だ。何かあれば、これで私たちを呼べ。直ぐに駆けつける」 その呪符をしばらく眺めた後、|墨余穏《モーユーウェン》はそれを胸元にしまい、|高書翰《ガオシューハン》としばらくたわいもない会話をした。 「泊まっていけ」と言われたが、丁重に断り|墨余穏《モーユーウェン》は夜遅くに大篆門を後にした。 皓月を頼りに夜道を歩きながら、|墨余穏《モーユーウェン》は寒仙雪門へ向かおうと乗蹻術の呪符を取り出すが、何の反応もしない。 「ん? 何故だ? 何故反応しない?」 |墨余穏《モーユーウェン》はもう一度、功力を込めて乗蹻術を念じるが、無反応のまま呪符が落ちていく。 焦る墨余穏は、違う呪符ならばと違う呪符を胸元から取り出し、手のひらに乗せて浮かせようとするがこれも反応しない。 神通符ならどうだろうか……? |師玉寧《シーギョクニン》の元にこれさえ届けば…… |墨余穏《モーユーウェン》は一縷の望みをかけて、神通符を飛ばす。しかし、神通符はそのまま紙切れが舞うように、草むらへまたひらりと落ちてしまった。 「はははっ……、まずいな。今ここに、妖魔や強者が来たら戦えないじゃん。|高書翰《ガオシューハン》め……。いい顔しやがって、これがしたかったのか……」 |墨余穏《モーユーウェン》が怒りのこもった独り言を嘆いていると、背後からリンリンと鈴の音が聞こえてきた。 (この鈴の音はさっき言っていた……) 墨余穏は何故か身動きが取れなくなり、ありとあらゆる所に瘀血が出始める。 術式を封印された今、誰かと戦うことは飛んで火に入る夏の虫だ。|墨余穏《モーユーウェン》は気功を呼び覚まし、瘀血を最小限にとどめる。 「化け物も引っ込む時分に、黒色の鼠が一匹……」 背後から鈴の音と妙な濁声が耳に入り、|墨余穏《モーユーウェン》は一気に鳥肌が立った。 「鈴の音はやはり幸運もたらす」 男は獲物を見つけたかのように、|墨余穏《モーユーウェン》の背後にピタリと引っ付き、墨余穏の首を鉤爪でそっと引っ掻いた。ほんの少し触れただけなのに、墨余穏の首からは瞬く間に血が滲み出る。 墨余穏は首元を抑えながら、声を絞り出した。 「お前は……、|呂熙《リューシー》か?」 「御名答。後世まで名前が知れ渡っているとは、さすが博学多才な天台山だ。昔より衰えたとはいえ、張り子の虎ばかりではなさそうだな」 |墨余穏《モーユーウェン》は鼻で笑いながら|呂熙《リューシー》を一瞥する。 「さてと、その睨み節もここまでだ。お前を殺して私は次に行かねばならない」 呂熙は鉄のような鉤爪を更に尖らせ、鉤爪同士を重ね合わすかのようにキンキンと鳴らし、次は|墨余穏《モーユーウェン》の首全体を狙い、鉤爪を横に振り翳した! 絶体絶命だと墨余穏は目を瞑る。 しかし鉤爪があとほんの少しで墨余穏の首に突き刺さるというところで、|呂熙《リューシー》の鉤爪がバリバリという音を立てて、一瞬で凍りついた! 墨余穏は瞑っていた目を開き、瞬きをすると、首元に青い線が入った白い衣の男を捉えた! 「|賢寧《シェンニン》兄!!!」 |師玉寧《シーギョクニン》は|墨余穏《モーユーウェン》を庇うかのように目の前にいる|呂熙《リューシー》から、距離を取らせる。 呂熙は顔色を失い、溜め息を漏らした。 「ここに来て白い鼠か……。すまないが今日はもう時間がない。門主とはまた手合わせすることにしよう」 |呂熙《リューシー》はそう言って、また|阿可《アーグァ》の時と同じように、抜け殻だけを残して去っていった。 すると、|師玉寧《シーギョクニン》は、怒りを帯びた顔で|墨余穏《モーユーウェン》の方を振り向く。 それを見た墨余穏は「ごめん」と言おうとするが、「ご」を言う前に、頭の中が真っ白になった。 突然、師玉寧に勢いよく抱き寄せられ、血が滲み出ていた首の傷口を舐められたあと、キツく傷口を吸われたからだ。 唐突な出来事に声も出ず、ただひたすら湧き上がる興奮と痛みを我慢するしかなかった。少しでも動こうものなら、師玉寧の恐ろしい腕力で身体を力強く固定される。まるで、大木に押しつぶされているかのようだ。師玉寧の唇が首に触れる度、墨余穏は全身に走る電流のような刺激に、思わず「んんっ……」と恥じらいの声を漏らしてしまう。 |師玉寧《シーギョクニン》はそんな|墨余穏《モーユーウェン》の感情など露ほども知らずといった様子で、口に含んだ墨余穏の血を吐き続けている。 そして、十回ほど吸われたところでようやく解放された。 墨余穏は師玉寧に酔眼のような目を向け、まるで事後のような乱れた呼吸をする。 顔がとても近い……。 汚してしまったその淡い丹花をすぐにでも拭いたいと、|墨余穏《モーユーウェン》はその丹花に触れようと手を伸ばす。しかし、|師玉寧《シーギョクニン》はそれを上手く躱すかのようにふと離れた。 「応急処置だ。あいつの鉤爪には毒がある」 |師玉寧《シーギョクニン》はそう言いながら、衣の袖で赤く汚れた唇を拭った。 そして怒り口調で墨余穏を責め始める。 「何故、神通符を飛ばさなかったんだ? こんな時間まで何をしている!」 「ご、ごめん。|賢寧《シェンニン》兄。そんな怒んないでよ。大篆門を出たら術が使えなくなったんだ。それで、帰ろうにも帰れず、とりあえず尊仙廟まで行こうと思ったらあいつに出会して……」 「術が使えなくなっただと?!」 「うん。一筆書かされたから。その時に多分封じ込められた」 |師玉寧《シーギョクニン》は、何をやっているだと言いたげに深い溜め息を漏らした。 「安易に名前を書いてはいけないと教わっただろう。後は何をされた?」 「うーんと、これを持っていろと言われて渡された」 |墨余穏《モーユーウェン》は胸元から、|高書翰《ガオシューハン》から貰った呪符を取り出した。 |師玉寧《シーギョクニン》はそれを一瞥し、「今すぐ捨てろ」と言い放った。 「それは、お前の居場所を把握する為の呪符だ。高門主に見張られているということだぞ。……本当にお前は警戒心が弱すぎる」 「ごめん……」 |墨余穏《モーユーウェン》は困り顔で癖のように唇を立てた。それからというもの、墨余穏は少年が母親に叱られるかの如く|師玉寧《シーギョクニン》から長々と説教を受け、寒仙雪門に戻ってからは、首を絞められるのではないかと思うぐらい傷口にキツく包帯を巻かれた。 そして、終いにはあの苦い一葉茶を三杯連続で飲まされる羽目になり、墨余穏は一人、吐き気が治るまでしばらく外の草むらで過ごしたのだった。それから間も無くして天台山は大きな観音廟として新しく建立され、全て寒仙雪門が管轄することとなった。 三神寳と|道玄天尊《ダオシュエンてんずん》は同じ廟で祀られ、かつての|香翠天尊《シィアンツイてんずん》と|深月天尊《シェンユエてんずん》も成仏するという意味で違う廟に位牌が納められた。かつての緑琉門にいた|葉風安《イェフォンアン》たちの位牌も天台山に集約され、いつでも故人を偲べるように配慮した。 それぞれの門派はというと、大篆門の門主・|高書翰《ガオシューハン》は道玄天尊の後を追うようにこの世を去り、後継者がいないという理由で大篆門は閉門となった。 金龍台門は|金冠明《ジングァンミン》が正式に門主となり、新しく家督を担ぐこととなった。あの邪教の鳥鴉盟はというと、盟主の死によって強制的に閉門。罪を犯した者は流刑され、その後も|師玉寧《シーギョクニン》が厳しく罰した。 寒仙雪門では、|墨余穏《モーユーウェン》が正式に寒仙雪門に入内し、師玉寧の伴侶となった。 |墨余穏《モーユーウェン》は相変わらず、玉庵のカウチでゴロゴロしながら、|師玉寧《シーギョクニン》の美しい横顔を眺めている。入内してからというもの、常に一緒にいる為あんなに嫌いだった一葉茶も難なく飲めるようになった。 一葉茶を喉に通すと、|墨余穏《モーユーウェン》はふと尋ねる。「ねぇ、|賢寧《シェンニン》兄。|道玄天尊《ダオシュエンてんずん》が言っていたシユって人は誰なの?」「ハンリ殿から聞いた話なんだが、道玄天尊が若き頃に人攫いに遭った若き先代と幼女のハンリ殿を助けたそうだ。それからしばらく天台山で面倒を見ていたそうで、道玄天尊と先代は互いに恋慕を抱いたそうだが、叶わぬ悲恋で終わったらしい。その時抱いた悲しみとこの想いは永遠に忘れないという意味で、道玄天尊の|神漣剣《しんれんけん》と先代の|神翼鏡《しんよくきょう》、それぞれの秘宝に特殊な守護術を封じて三神寳として祀ったらしい」「へぇ〜。なんか深い愛だなぁ……」 |墨余穏《モーユーウェン》はしみじみと目を細めながら、一葉茶を啜った。 庭から入ってきた黄色い蝶が|師玉寧《シーギョクニン》の人差し指に止まる。「想いが強ければ強いほど、失う痛みは大きい。私は道玄天尊のお気持ちが凄くよく分かる」「だから、俺が死んだ後閉関してたんだ……」 黄色い
|香翠天尊《シィアンツイてんずん》は言うまでもなく、無惨な姿となって力尽きた。 |道玄天尊《ダオシュエンてんずん》の凄まじい威力を見せつけられた|墨余穏《モーユーウェン》と|師玉寧《シーギョクニン》は、その場で喫驚していた。 「いやはや、たまげたね〜。何という威力と人情劇なんだ。素晴らしいよ|道玄天尊《ダオシュエンてんずん》さんよ。守ってきた盟主と実の妹を手に掛けるなんて、|李世《リーヨ》君といい、二人はお心が強いの〜」 ひどく感嘆した様子で拍手をするように、|呂熙《リューシー》は胸の前で鉤爪を鳴らした。 しかし、|道玄天尊《ダオシュエンてんずん》はこれまでの力を使い果たしてしまったのか、突然吐血しその場に項垂れてしまった。一緒に来ていた天台山の道士たちが駆けつけるも、いつ力尽きてもおかしくない様子だ。「滑稽だなぁ。天尊と呼ばれた高貴なお方も所詮はただの人間。人間の裁量などその程度なものなのだよ」 口元を一文字に引き結んで、|呂熙《リューシー》は気怠く言う。凝り固まった首をゴリっと鳴らすと、|墨余穏《モーユーウェン》に向かって濁った目を据わらせた。「さぁ、とっとと終わらせようじゃないか」「そうだな。俺も早く終わらせて、|師玉寧《シーギョクニン》と三礼の儀をしたいからさ〜」 |墨余穏《モーユーウェン》は何の躊躇もなく真顔で言うと、その言葉を聞いていた|李世《リーヨ》は顔を顰め、「こんな奴と三礼なんて世も末だ!」と吐き捨てた。 すると、凍てつく光芒を放った剣が|李世《リーヨ》の頬を掠め、|李世《リーヨ》の背後にあった大木に勢いよく突き刺さった。「減らず口も大概にしないか」 重厚感のある低い声で、|師玉寧《シーギョクニン》は|李世《リーヨ》を凍らすように一瞬で黙らせる。 |師玉寧《シーギョクニン》の気迫に恐れ慄いたのか、|李世《リーヨ》はガタガタと歯を震わせ始め、それ以降口を閉ざした。|師玉寧《シーギョクニン》は念の為、|李世《リーヨ》の身体に字符を貼り付け、身動きを封じた。「あはははっ! 美人を怒らすと怖いってことを肝に銘じておけ、世間知らずの坊ちゃんよ〜」 |墨余穏《モーユーウェン》はケラケラとそう言い終えると、|豪剛《ハオガン》から譲り受けた剣を鞘からスルッと抜き出し、刃先を|呂熙《リューシー》に向けた。 何があっても|呂熙
懇ろな関係になった|墨余穏《モーユーウェン》と|師玉寧《シーギョクニン》は、二人で飲んだ|道玄天尊《ダオシュエンてんずん》の同化呑術の効果も相まって、無敵だと言わんばかりに勢いをつけていた。 鳥鴉盟たちから決闘状が寒仙雪門に届いたのは、あれから数日経ったある日の事だった。 「いよいよだな、|墨逸《モーイー》」 「そうだね、まぁ大丈夫っしょ。俺ら最強だし。ただ、|賢寧《シェンニン》兄の好きだったお姉さんを始末しなきゃなんないからな〜。どうなるんだか」 |墨余穏《モーユーウェン》が横目に冗談めかして言うと、|師玉寧《シーギョクニン》は一葉茶を啜りながら目を細めた。 「私が好きだった? 何かの間違いではないか? 私はいつも、力を封じ込められてしまっていただけだ」 「え? 見つめていたじゃん。こう、好きで好きで堪らないって感じで〜」 相手を弄るように、|墨余穏《モーユーウェン》はジーっと|師玉寧《シーギョクニン》を見つめる。 |師玉寧《シーギョクニン》は小さく鼻息を漏らし、やれやれと言った様子で首を横に振った。「動きを止められていただけだ。その時から気づいていた。この人は、人間の動きを瞬時に止める力があるのだと。だから、そこをいかに打破するかが重要だ」 「あはははっ! 余裕だって。あの人たちには弱点があるんだ。それを全面に出せば、皆途端に弱くなる」 眉間に皺を寄せた|師玉寧《シーギョクニン》は、何を企んでいるんだ? とでも言いたげに|墨余穏《モーユーウェン》を見遣る。 「まぁ、後で見ててよ。とりあえず、突厥は崑崙山の爺ちゃん先生たちに任せて、|賢寧《シェンニン》兄はカラス達を頼むよ。そうだ、大篆門の門主は来るの?」 「いや、|高書翰《ガオシューハン》門主は来ないだろう。大病を患ったと知らせを受けた。来れたとしても|黄轅《コウエン》師範が黙っていないはずだ」 「確かに。友人を追い出した門派に情はないだろうね」 |墨余穏《モーユーウェン》は他人事のように言い終えると、書き留めておいた呪符を胸元に仕舞った。 |黄轅《コウエン》に磨いてもらった|豪剛《ハオガン》の剣も持って、|師玉寧《シーギョクニン》の支度を扉の前で待つ。 恐らくこの戦いで、長年続いた天台山の歴史は幕を下ろすだろう。今まで保たれていた統治は完全に崩壊し
目を覚ました|墨余穏《モーユーウェン》は、|黄轅《コウエン》が言っていた翡翠泉へ向かっていた。 ようやく連日連夜の修行から解放された|墨余穏《モーユーウェン》は、込み上げる疲れを感じると同時に、己の心身が一回りも二回りも大きくなっていることに気づく。 体が重くなっていることは薄々気づいてはいたが、こんなにも厚みがあっただろうか。 |墨余穏《モーユーウェン》は自分で、自分の逞しくなった二の腕や太腿を触ってみる。 |黄轅《コウエン》先生の鬼の修行は筋肥大にもなるのだなぁ、と内なる力を全面に引き出してくれた|黄轅《コウエン》に、|墨余穏《モーユーウェン》は思わず感嘆の息を漏らした。 そんな修行の成果を噛み締めながら歩いていると、生い茂る草むらから澄み切った翡翠の色をした泉が見えてきた。 少し奥へと進むと水面を激しく打ちつける滝の音が聞こえてくる。滝の側まで行くと、その辺りは白い湯気が漂っており、墨余穏は指先を泉に入れて温度を確かめた。「お、あったかいじゃないか! 珍しいな、温泉の滝なんて」 |墨余穏《モーユーウェン》は独り言を言いながら、衣を脱ぎ始めた。露わになった傷だらけの身体をゆっくり泉の中に沈め、痛みを堪える。 滝の側までゆっくり移動し、|墨余穏《モーユーウェン》はしばらく傷に染みていく痛みと戦いながら泉に浸かった。 すると、ちゃぽんと水面を鳴らしながら何者かがこちらに向かって歩いてくるのが分かった。|墨余穏《モーユーウェン》は女性かもしれないと思い、そっと滝の裏側にある空洞に身を隠した。 歩き方がゆっくりでどこかぎこちない。 女性というよりも老人か誰かだろうと様子を見ていると、白い肌をした長身の美しい男が現れた。 |墨余穏《モーユーウェン》の胸が打ち破るように高鳴った。 どうしてここに……。 どうしてここに、|師玉寧《シーギョクニン》が居るんだ?! |墨余穏《モーユーウェン》は、「何してるんだ? |賢寧《シェンニン》兄!」 と思わず叫ぶ。 目の前に突如現れた|墨余穏《モーユーウェン》を見て、師玉寧も目を丸くしていた。「傷が治ると聞いた」 「誰に?」「雲師の|黄轅《コウエン》師範に」 記憶が戻っているのだと確信した|墨余穏《モーユーウェン》は、「俺のことは分かるか?」と尋ねた。 すると、|師玉寧《シーギョクニ
翌朝、|墨余穏《モーユーウェン》は|一恩《イーエン》に|金王《ジンワン》から受け取った十包の薬を渡し、修行先である|崑崙山《こんろんざん》へ再び戻ることを伝えた。 「そんな。寒仙雪門には部屋もいくつかありますし、今すぐお戻りにならなくても……」 「いや、時間が無いんだ。|賢寧《シェンニン》兄が回復したら、すぐに鳥鴉盟のところへ行かなきゃならない。今のうちに修行しておきたいんだ」 |墨余穏《モーユーウェン》は先輩らしく、安心させるような逞しい笑みを見せて、|一恩《イーエン》の両肩を軽く叩いた。 そこまでしてどうしてですか、と肩を落とす|一恩《イーエン》に、|墨余穏《モーユーウェン》は頬を掻きながら照れ臭く言う。「好きな人の前ではカッコつけたいだろ」 賢い|一恩《イーエン》は顔と耳を瞬時に赤らめ、「そうですね」と言った。 続けて、何かを思い出したかのように、突然「あ!」と切り出す。「何だよ、急に」「|師《シー》宗主のお部屋を綺麗にしていた時、萎れた一輪の水仙が落ちていました。あれは、恐らく|墨逸《モーイー》先輩が持って来られたものですよね? 拾って小さな瓶に入れておいたら見事に咲き戻りまして……」「……」「……それを|師《シー》宗主の枕元に置いておいたら、昨日それをずっと穏やかな目で眺めてらっしゃいました。ご記憶が戻るのも時間の問題かもしれません」 |墨余穏《モーユーウェン》は少し間を置いて、「……だといいな」と言って小さく微笑んだ。記憶の片隅に残っている物を見ると、過去の記憶が蘇る話はよく聞く。|墨余穏《モーユーウェン》にも、一筋の希望の光が見えた気がした。「じゃ、|一恩《イーエン》。あとは頼んだぞ。何かあれば、また知らせてくれ」 |墨余穏《モーユーウェン》はそう言って、手を振りながら寒仙雪門を後にし、乗蹻術を放出して|黄轅《コウエン》のいる崑崙山へ向かった。 ◆ ほんの数日で戻ってきた|墨余穏《モーユーウェン》を見て、|黄轅《コウエン》は驚いた!「|墨逸《モーイー》! もういいのか?」「あ、|黄轅《コウエン》先生! いやぁ〜、それが……」 |墨余穏《モーユーウェン》は頭を掻きながら、|師玉寧《シーギョクニン》が思った以上に深刻であることを報告した。 そして一番恐れていた黒幕の正体も。「やはり、私の読み通りか。
床に落ちた萎れた水仙の花に気づかず、|墨余穏《モーユーウェン》はそれを踏み付けて、|師玉寧《シーギョクニン》のいる荒れた寝台へ向かった。 「|賢寧《シェンニン》兄、俺だよ」 |墨余穏《モーユーウェン》は愛猫を愛でるかのような表情を見せて、優しく問いかけた。 以前のように何気なく|師玉寧《シーギョクニン》の肩に触れようと手を伸ばすが、煩わしいハエでも払いのけるかのように、力強く|師玉寧《シーギョクニン》に阻止される。 「誰だ! 貴様は! 知らない者が私に勝手に触れようとするな! 穢らわしい!」 |知らない者《・・・・・》と言われた|墨余穏《モーユーウェン》は「ごめん……」と言って、僅かに震える手を引っ込めた。 |墨余穏《モーユーウェン》は小さく息を吐き、気を取り直してもう一度、|師玉寧《シーギョクニン》に話しかける。 「知らないだなんて酷いなぁ〜。|賢寧《シェンニン》兄とずっと一緒にいた|墨逸《モーイー》だよ。本当に俺のこと忘れちゃったの?」 「知らないと言ったら知らない。用がなければ早く出て行ってくれ!」 どうやら、本当に|師玉寧《シーギョクニン》は記憶を失くしてしまっているようだ。|一恩《イーエン》曰く、特定の人物だけの記憶を失くしている訳ではなく、自分が何者かであることも忘れてしまっているらしい。 |墨余穏《モーユーウェン》は窓を開け、日差しの光で輝きを放っている埃たちを外へ追いやった。 「分かった、分かった! 俺は出て行くから、その代わりこの部屋を綺麗にさせてよ。ほら、見てよ! 凄い埃。こんな所にずっと居たらその傷も治んないよ。手当てもし直したいし、あなたは少しそこのカウチに横になって休んでもらってていいから、ね? |一恩《イーエン》」 「は、はい! 私たちが全てお綺麗にしますので、お気になさらずどうぞこちらでお休みに……」 |一恩《イーエン》は鼻を啜りながら、カウチを案内するように両手を向ける。 すると、|師玉寧《シーギョクニン》は黙ったまま、腹の痛みを抑えながら寝台から足を出した。 「手を貸そうか?」と|墨余穏《モーユーウェン》は尋ねるも、|師玉寧《シーギョクニン》は「触れるな」の一点張りだった。|墨余穏《モーユーウェン》は|一恩《イーエン》に掃除道具や処置に必要なもの、身体を拭く湯などいくつか持